自分の親が“毒親”?
はい。
私もまさか自分の親が毒親だとは思っていませんでした。
自分が子育てをするようになるまでは、、、。
始まりは、2人目の里帰り出産で実家に帰ったことから。
それまでも何となく1人目の出産で育児に悩み、疲れ、生きづらさ(人に甘えられない・大きな声でパニックになる・自分をダメな人間だと思う・家事ができない・良いお母さんを演じようとして無理をしてしまう・人の目が気になるなどなど・・・)を抱えていました。
2人目が生まれる2週間ほど前から、娘(長女)も連れての里帰りでした。
実家にこんなに長く滞在するのは2回目(長女の出産のときから)でしたが、今回は2歳の子連れでの帰省でメンタルが相当に不安定でした。
4日くらい経つと母も私もお互いにストレスを感じ始めていたのも手伝って不穏な空気が流れ始めていました。
実家にいることで昔の情景やその時のいろんな感情が思い出され、私を悩ませ始めました。
そして母に対する怒りが態度にも出始めた頃、勘づいた母から
「私はあんたの飯炊きババアじゃない!」
と言われました。
初めて聞く言葉に、何を意味するのかわかりませんでしたが怒っている、ヒステリックになっているというのはわかりました。
おそらくは、色々と気を遣って私や娘のお世話をしているのに、私が当然のような態度をとっていて感謝がないということだろうと思います。ご飯の面では心あたりがありますが、それ以外の面では掃除・洗濯・買い出しなど私がいないと回らないほど甘えられていたという思いもあり、協力しあっているつもりでいたので心外でした。
母はいつも人に過剰に感謝を求めます。それが母の存在価値?を感じられるものだったのでしょう。父にも子供たちにも(と言っても兄たちには求めないので実質私だけ)親戚や仕事場でもそういった態度でした。
私はいつも「自分こそ感謝を全くしないじゃないか」と思っていました。
父が働いてくれていること、庭や家のこと、ペットや植物のお世話、両家の両親のこと、親戚のこと、忙しく動き回ってくれるのに(ゴロゴロしている姿を見たことがありません)、ありがたいという気持ちはさらさらなくて、当然のことのようにできていない部分に不満を表し、常に私に愚痴っていました。
私はそれを聞くのが本当に嫌で、子供の頃は仕方なく黙って聞いていたのですが、大人になってから一度父のことを庇って言い返したことがあります。そうすると態度は一変、激怒して泣き出し、自分を悲劇のヒロインかのように「私が悪いんやね、わかったよ」と吐き捨てられ、何とも言えない気持ちにさせたのです。
それ以来、母が父の愚痴を言い始めると何も言わずにその場から離れるようにしていました。
そうした態度がまた気に食わなかったので、今回のあの発言につながったのでしょう。
弱っているときは藁をも掴む?
耐えきれず、ネットで地元のヒーリングサロンを検索し、近場に50分5,000円というサロンを見つけ、母には買い物に行ってくると伝えて娘を短時間お願いして家を出ました。
サロンに電話した時、はじめは時間の都合が合わないと言われたため、諦めて違うとことを探そうとしていたら、再度電話がかかってきて「何とか力になれればと都合をつけましたのでぜひ来てください」と。。。本当にありがたかったです。(この後大変なことになるとはこの時はまだ知りませんでした。)
サロンは確か“天使の”何とか〜(覚えてないけどいかにも)という名前で、昔ながらの木造民家に手作りの木の看板がかけてありました。家族で住んでる家の一室で、入ると年配の女性が現れ、カウンセリングの部屋に通してくれました。薄暗く埃っぽい部屋で楽器やマイクがあり趣味の部屋かな?と思いました。
はじめは対面で話を聞いてもらい、やっと思いを吐き出せた私はひたすら泣いていました。それをじっと、ただ聞いていてくれました。その後、今から音楽で魂を癒しますのでこちらへと言われリクライニングチェアに横になり、目にタオルを被せられました。
ゴーンと低いシンバル?の音とともに、その女性が耳元で聞きなれない言語で歌い始めたのです。
マイクで!耳元!!
・・・・失礼だけどあまり上手でもない歌を聞かされ続け、特に何も感じることはなく終了。
起き上がってももやもやしていましたが、まあ話を聞いてもらえただけでもスッキリしたからいいかと自分を納得させ、料金を払って帰ろうとした時、
(私が5,000円を差し出すと)
「5万円!5万円!」 (※目は合わせずに手を出して、、、)
と言われたのです!
「え?」 と思いつつも、手持ちがなかったため
「一旦コンビニで下ろして来てもいいですか?」と伝え、徒歩1分もない大きな道路を挟んで向かいにあったコンビニへ。
すぐに当時の夫に電話をし状況を説明すると、消費者センターかどこかに電話をしたほうがいいんじゃないかと言われ、念の為もう一度スマホで検索画面を見直したのです。
すると、
料金5000
0円
となっていたのです!!!!
とんでもないところに改行が入ってる!!!
でも、、、確かに50,000円と記載があります。
完全に私の見落としでしたが、電話した時の対応を思い出すと少し疑問の残るところでした。
そして料金を払い、家に帰りました。
こんなことがあるのかと悶々としつつも、手痛い勉強代だったなと反省したのでした。
みなさんはくれぐれも気をつけてくださいね!
さて、どうしよう。
結局何も癒されるどころか心はさらにズタボロ状態で、やはり実家よりも自分の家に戻って産ませてもらおうか?とか考え始めていました。
2日くらい経った夜中。寝ているところへ急に母がきて
「全部私が悪いんでしょ。(少しきれ気味)帰らんでいいからここで産みなさい。」と。
それから数日何とかやり過ごし、無事に出産しました。
出産してからは身体の痛みや育児の疲れから、そんなことを考えていられる状況ではなかったため、自分の家に帰る日まで何事もなく過ごせたのです。
愛された記憶って、、、
当時私が抱えていた「生きづらさ」の根底にあった気持ちを上げてみますね。
母にもっと甘えたかった。
私にだけ厳しく、ヒステリックなので頼ったり甘えたり、相談したり、そんなことはしたことがなかった。
母に私をみて欲しかった。
兄2人ばかりをかまい、私には「あんたはついでに産んだ」と言われ、お手伝いばかりさせられていました。できていないことがあるとヒステリックにイライラをぶつけられていました。
父に対する愚痴を聞くのが辛かった。
父のいないところで父の悪口を私にだけ聞かせ続け、私が父を嫌いになるように洗脳されていた。兄たちは母に従順で母が欲しい言葉を言えていたのかと思う。恐らく私だけ女の子だったので父は私を可愛がってくれていたから敵とみなされていたのかと思う。
抱きしめられたかった。
自分が子供たちをハグしたり、一緒の布団でくっついて寝たりすると、ふと思う。抱きしめてもらったことなかったな〜。
ただ、父は私を膝の上によく乗せてくれた。
気持ちに寄り添ったり、慰めてもらいたかった。
いじめられたり、親友が亡くなったり、車に撥ねられたり、悲しいことがあった時も我関せずで、寄り添ってもらえなかった。私はいつも1人で机の下に隠れてヒソヒソと泣いていた。うるさいと怒られるので。そして紙に自分の気持ちを書き殴っていた。それしか方法がなかったのかもしれない。今でも明確に覚えているのが「私は母のような母親には絶対にならない!」と、小学2年生の私は書いていたのだ。
愛情を感じさせて欲しかった。
・何かを褒められたり、可愛いとか愛しいとか単純に子供が喜ぶような嬉しい言葉がけはなく、抱きしめられることもなく、愛情を感じられるような出来事はなかった。
と、出産してママになった私は、子育てをしているうちに自分は愛されていなかったのだと思うようになり、こんなふうに母のことを理解していたのです。
そして、夜な夜なネットサーフィンをしてたどり着いた言葉が
“毒親”でした。
毒親?
当時は「毒」という言葉が恐ろしくて、こんな言葉を親につけてはいけないと、植え付けられた観念が心を縛り、まだ良い子を演じようとしていたのです。
そして徐々に、私も自分が育てられたように、母のように、“毒親”になっているのではないかと子育てに自信が持てなくなっていったのです。
あ、今では真逆ほどの解釈に変わっていて、感謝しています。
こんな状況からどう抜け出していったのでしょうか?